第2部 「笠盛」の履歴書・目次 【第1章:先祖たち】 その1 前置き 第1部では事業の中核に育った「000」を綴りました。第2部は創業以来の「笠盛」の歴史です。資料を捨てたため記憶を頼るしかありません。多少の誤りはあるかもしれませんが、お許しを。 その2 明治10年 「笠盛」が創業した明治10年(1877年)は、東大設立や蓄音機発明など文明開化の光と、西南戦争という内乱の影が交錯する激動の年でした。そんな歴史の転換点に、笠盛は産声をあげました。 その3 笠嘉織物 幕末の生糸不足を乗り越えた桐生は、明治に入ると官需や最新技術の導入で活気づきました。その昇り龍のような町の勢いの中、「笠盛」の前身である笠嘉織物は産声を上げました。 その4 創業 曽祖父・嘉吉が明治10年、帯屋として我が社を興しました。糸商に婿入りした彼がなぜ独立したのか。今となっては不明ですが、「男子たるもの、自分の足で立つべきである」だったのかな? その5 ライバル 曾祖父が創業した当時、繊維産業は繁栄の真っ盛りでしたが、今は逆境に苦しんでいます。私に比べていい時代を生きた彼は羨やましい。でも、私は彼をライバルだと思って生きてきました。 その6 柳田家 2代目の盛は、没落した名家・柳田家から婿入りしました。学識豊かな彼は家を継ぎますが、一族の明晰な頭脳の血は、残念ながら私には受け継がれなかったようです。 その7 学究肌 2代目の盛は親分肌で、戦後苦境の桐生を救った恩人といわれます。屋号を「笠盛」と改め、安価な帯の開発に情熱を注いだ学究肌の経営者でした。今も私の経営の誇りです。 その8 ヤシが来る! 昭和恐慌で苦境に陥った2代目の盛は、他人の保証人となったことでい取り立てに追われました。「みだりに判子を押すな」という、我が家の厳格な家訓が生まれました。 その9 戦争 軍靴の響きは「笠盛」に追い風になりました。しかしアメリカと戦端を開いたあとははいけません。「笠盛」は窮地に陥りました。その中で祖父・盛は研究を続け戦後の礎を築きました。盛は過酷な運命を乗り越え、会社を守り抜いたのです その10 結核 3代目である父・勝は、祖母同様の結核を剣道で克服したといいます。困窮の中で外注費を浮かそうと独学で得た織機の修理技術。若き日のこの苦労と機械への適性が、後の経営を支える大きな糧でした。 その11 勝の闘い 万年二等兵として戦争に翻弄された父・勝。結核再発や兵器製造への動員という苦難を乗り越えて家業を再開。その機械いじりの才能と技術が、復興を支える原動力となりました。 その12 リバーシブル 父・勝は機械いじりで磨いた技術でリバーシブル帯を開発し、戦後に大ヒットさせました。花森安治氏も注目した父の発明の才は、今も私の誇りです。 その13 笠盛献上 人絹での「笠盛献上」は、誰もが使える帯として桐生出荷の3割を占める大ヒット。父の尽力で、会社は私が育つ頃には従業員50名を超える規模へと成長していました。 その14 流通革命 父・勝は流通改革の先駆者でした。昭和22年、問屋を省く「笠盛組」を創設。後のダイエーに先立つ試みですが、商売の形をひたむきに追求した結果だったのでしょう。 その15 返品 買継の理不尽な返品に怒った父は二次問屋との直取引を決断しました。この合理化は結果的に流通革命となり、他社と共に発展する「笠盛組(後の福寿会)」を築く礎となりました。 【第2章:4代目】 その16 今度こそ 兄が亡くなった直後に生まれ、「今度こそ」と家族の希望を一身に背負ったのが私でした。繁忙期で多忙を極める中でも母は優しく、母の背中から見た景色は、今も懐かしく心に残る私の原風景となっています。 その17 不運な経営者 「銀のスプーン」をくわえて生まれた幸運な男。周囲にはそう映ったかもしれませんが、私自身はとんでもない不運を背負って生まれたと感じています。でも、不運だからこそ必死に知恵を絞り、経験を積み重ねてきた、とも思っています。 その18 低空飛行 「夢見がちな少年」として育ち、低学年時は成績不振の低空飛行。一方で、馬鹿にされれば迷わず拳が出る喧嘩っ早い一面も。スキーに魅せられた少年時でもありました。 その19 オール5 中学時代、一度だけ達成した「オール5」は母への最高の親孝行となりました。しかし高校に入ると親友と試験前日に映画へ通うなど、成績は再び低空飛行へ。 その20 ノーテンキ 中央大学理工学部に進み、家業を継ぐ運命を疑いもせず過ごした穏やかな学生時代。しかし卒業を目前に控え、私の人生は大きな嵐へと突入していきます。私は「不運」な経営者なのです。 その21 好きな道を選べ 家業の機屋廃業で、継ぐはずだった人生のレールが突如消滅。途方に暮れる中、叔父の紹介で日立関連会社への就職が決まります。全く予期しなかった社会人人生の幕開けでした。 その22 ソフトウエアエンジニア 日立でメインフレームの検査業務に従事し、家業への関心が薄れかけていた頃、父からの帰郷要請を受けました。しかし戻った先には、第一次石油危機という暴風雨が待ち受けていたのです。 その23 石油危機 家業の刺繍業を学び始めた矢先、第一次石油危機の直撃で受注は激減。会社を救うため、勉強するゆとりもないまま営業の最前線へ飛び出しました。経営者としての本当の試練の始まりです。 その24 倒産? 石油危機の波に飲み込まれ、受注は半減。倒産の危機が現実味を帯びる中、呼び戻されるのが2,3ヶ月遅かったら? と考えたこともあります。もっとも、そうだったら「000」は生まれていませんが。 その25 駆け出し 「仕事をください」と頭を下げるだけの飛び込み営業。知識も経験も浅く、取引先から逆にアドバイスを受ける毎日でした。だが、いま思えばどん底の駆け出し時代こそが私の原点となっています。 その26 缶ビールの味 倒産の危機に揺れながらも、社員の誠実な仕事が信頼を生み、客先からの紹介という道が開けました。帰りの電車で飲んだ缶ビールの格別の味が、今も鮮明に心に刻まれています。 その27 やっと黒字に 社員の技術力が評価されて紹介の連鎖が続き、どん底から抜け出すことができました。営業上の失敗も糧にし、数年の苦闘を経てようやく黒字へ転換。会社が再び動き出しました。 【第3章:崖っぷちからの再起】 その28 順風満帆 不況期に敢えて踏み切った設備投資が、APブランドのブームと重なり、社長就任後、売り上げは急拡大しました。順風満帆な春を迎え、笠盛の黄金時代が幕を開けたようでした。 その29 インドネシア インドネシアへの進出。恩義あるイタバシニットからの打診でしたが、視察した現地のあまりに劣悪な環境に驚きました。断れない関係性、現地で直感した「危険な臭い」の間で心は大きく揺れました。 その30 決断 危険の臭いに躊躇しましたが、恩人からの好条件の提案を受け決めました。技術指導を徹底し、1年で現地の刺繍品質を劇的に向上。こうして「笠盛」は、インドネシアに足跡を記し始めたのです。 その31 アジア通貨危機 アジア通貨危機の中、暴動が渦巻く現地を耐え忍びました。平穏が戻った2001年、利益拡大の誘惑に導かれ、ついに現地法人「P.T.KASAMORI」を設立。独立という新たな挑戦が始まりました。 その32 そして、暴動 採用面接に人が殺到、不合格者による暴動が発生。工場は荒らされましたが幸いミシンは無事でした。波乱の幕開けとなりましたが、ついに「P.T.KASAMORI」の操業が始まりました。 その33 9・11 独立直後の主要取引先の不振に9.11テロが追い打ちをかけました。イスラム教国への不信感から受注が激減し、初年度は赤字決算に。海外経営の過酷さを痛感する、苦難の幕開けとなりました。 その34 撤退戦 考えに考えた末、インドネシアからの撤退を決断。1億円の借金を背負い、失意の中で雇った1人の青年が、のちに「000」開発の鍵となります。人生、有為転変です。 その35 臥龍先生との出会い インドネシア撤退後、八方塞がりの中で臥龍先生の「感動経営」に出会いました。量より質へ。社員自身が仕事に感動できる経営を目指し、私は先生の門を叩くことを強く決意しました。 その36 7カ年計画 「本気塾」で出た宿題として策定した「7カ年計画」。勢いで立てた目標でしたが、退路を断って実行を誓ったその計画が、笠盛の未来を決定づける重要な羅針盤となりました。 その37 東京本気塾 目標を先に決め行動で追い込む「笠盛流」で個展を成功させ、計画を前倒しで達成。臥龍先生の教えを受け、「社長1人で背負う」姿勢を捨て、周囲を信じて共に背負う経営へと舵を切りました。 その38 ワクワクドキドキ 経営理念を掲げ、全情報を公開し、家族のような組織を作り、褒める文化を実践しました。社員の自発性を引き出し、誇りを持てる活気ある職場へと変貌を目指さす「笠盛」の改革でした。 その39 私の経営改革 権限を社員に分散し、各自が伸び伸びと働ける組織へ変革しました。壁のたびに救世主に助けられた道のりは、不運か幸運か。最高の仲間に支えられた、実りある経営者人生でした。 その40 おわりに 「笠盛」の歴史は、支えてくれた多くの仲間や恩人たちへの感謝を込めた「おかげさまで」の一言に集約されます。頼もしい次世代へバトンを渡し、社員と共にこれからも熱く飛躍し続ける未来を確信して、この履歴書を締めくくります。 【本に間に合わなかったこと】 その1 明治13年創業? 自費出版した半生記「ワクワクドキドキ 私のスマイル経営」の完結後、散逸した資料の調査を継続。公的資料から父の教えとは異なる創業年の記述が見つかるなど、本に間に合わなかった新事実をWebで補遺します。 その2 やはり明治10年? 明治維新直後の激動期です。家内工業から脱して従業員を抱え「工場」としての体裁を整えたのが明治13年ではなかったのか? 渋沢栄一が取り入れた「会社」の概念が浸透し始めた時代のことでした。 その3 笠原の家系 私のルーツを辿る中、桐生織物の発展に寄与した偉人・岩瀬吉兵衛と、その孫で笠原家を継いだ吉郎を知りました。桐生に「笠原」姓は多くはありません。私の血筋がこの発明家たちに繋がっているのではないかと思うとわくわくします。 その4 確証はなかったが… 調査の末、ついに偉人・岩瀬吉兵衛の血筋に繋がる可能性を示す資料を手に入れました。確証はなくとも、先人の開拓精神が私のルーツかもいしれない喜びを胸に、次世代に「笠盛」の未来を託し、履歴書を締めくくります。