本に間に合わなかったこと その3

第2点は笠原の家系についてです。

我が家、笠原家については、本を書く際にかなり調べました。その結果、「笠盛」の創業者、嘉吉までは家系を辿ることが出来ました。ところが、それ以前に遡ろうとするとめぼしい資料が見付かりません。やむなく、本では嘉吉を初代とする笠原の血筋を述べるにとどめました。

しかし、本を書くためとはいえ、一度血筋を辿り出すと、やはり気になるものです。私はいったいどこから来たのだろう? 私の先祖はどんな人だったのか? これも、折に触れて様々な方にお話しを聞き、何か役に立ちそうな資料があると聞けば見に行ったりしていました。

突然ですが、桐生には岩瀬吉兵衛(1746 – 1822)という偉人がいました。もとは下総結城(しもうさゆうき)郡の生まれといいますから、いまの茨城県出身です。この岩瀬吉兵衛が桐生に引っ越してきたのが安永7年(1778年)でした。繊維産地として破竹の勢いだった当時の桐生で一旗揚げようと思ったのに違いありません。

桐生に来た岩瀬吉兵衛は峯岸勝右衛門のもとに居着きます。峯岸勝右衛門は大工の棟梁でしたから岩瀬吉兵衛も大工だったのでしょう。

当時の大工さんは、いまのようにもっぱら家を建てる、というだけの職人ではありませんでした。いまと違って鉄が豊富に使える時代ではありません。織物に必要な織機や様々な「機械」も当時は木製でしたから、大工さんが作るものでした。峯岸勝右衛門も京都西陣で使われていた紡車(糸を紡ぐ道具)などを作っていました。

当時、桐生では縮緬の生産が盛んでした。縮緬を織るには、糸に撚りをかけねばなりません。のちに桐生の名産となる「お召し」では撚りをさらに強くし、1本当たり2500〜3000回撚って強撚糸にします。この糸を撚る作業にも紡車を使っていました。しかし、紡車は糸を紡いで輪っかに巻き取るものです。撚りをかけながら巻き取るのでは能率が上がりません。