最初に全員で読んだ「はじめに」はこんな文章です。
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私は落語が好きです。ともすれば単なる笑い話と見なされがちですが、とんでもない。高座に登ったたった1人の落語家が様々な登場人物を演じ分け、時には客の大笑いを引き出し、また時には聴衆に涙させる。こんな演芸、お前たちは持ってないだろう、と外国に向かって胸を張りたくなる日本の伝統芸能です。
落語が好きな私は、自分を登場人物に見立てながらこれまで生きてきました。落語の登場人物といえば熊さんに八っつぁんに大家さん、少し足りない与太郎に、ノーテンキな若旦那。さて、俺はどれだろう? やっぱり熊さんか八っつぁんか? それとも与太郎がはまり役か? うーん、若旦那? いや、それだけは避けようと思ってやって来たのだが。
そんな思案はもう必要がなくなります。私はこのたび、昭和59年(1984年)の社長就任から35年を区切りにして社長を退き、会長になります。いってみれば、横町のご隠居さんに就任するわけです。落語のご隠居さんは学識豊かで、いつも熊さん、八っつぁんに蘊蓄を傾ける人格者ですが、まあ、私の場合はただ隠居になるというだけで……。
現役中は本当にお世話になりました。この場を借りて厚くお礼を申し上げます。私の後は、これまで常務だった桜井理(さくらい・さとる)さんにお任せします。笠原家以外からの初めての社長です。私同様、どうかよろしくお願いします。
曾祖父・笠原嘉吉が興した「笠盛」に私が戻ったのは昭和48年(1973年)10月のことでした。私を待っていたのは第一次石油危機です。のっけから受注が激減する逆境にさらされ、
「このままでは笠盛が潰れる!」
と刺繍の「し」の字も知らないまま営業に走り回った日々から、もう43年がたちました。社員のみなさん、協力工場、仕入れ先、取引先、そして家族の助けを借りて何とか会社を立ち直らせて今日を迎えられたのは、今思い返すと何だか夢のようです。
私は、「笠盛」にはとても大切なDNAが受け継がれていると確信しています。失敗を恐れず、常に前に向かって進み続けるチャレンジ精神です。私は常に挑戦し続けました。社員のみなさんも挑戦し続けてくれました。ときには失敗もありました。しかし、失敗しても次は成功するぞ、と挑戦を繰り返す。全社が一丸となって挑み続けたからこそ、仕入れ先や取引先に大事にしていただき、お客様にも評価されていまの「笠盛」があります。
社長を退くこの機に、「笠盛」のDNAを可視化しようと考えました。私が繰り返した失敗からたくさんの栄養分を吸収し、「笠盛」のDNAを守り、育てていっていただきたいと思いました。この本は、そんな私の願いの結晶です。
「康利の顔を見ていると、苦労していることが誰にも分からないね」
ある時、母が私を見て言った言葉です。
ご存じのように、「笠盛」は何度も不景気の波に襲われ、転覆しそうなこともありました。でも私は、決して笑顔を忘れることはありませんでした。
日立ソフトウェアエンジニアリング(株)から戻ったとき、冒頭にも書いたように急激に受注が少なくなり、これは仕事を取らないと船が沈んでしまうと、見よう見まねで営業を始めました。
プログラムを作る技術なら負けません。でも営業は未経験です。そこで始めたのが笑顔の訓練でした。毎朝鏡の前で
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」
あ! 白雪姫ではありませんね。
毎朝、鏡の前で自分が満足できる笑顔を作ったのです。毎朝笑顔を作る練習をしていると、いつしかそれが習慣になり、人に会うといつでも笑顔が出るようになりました。パブロフの犬になったわけです。これが、私の最初の挑戦でした。
さらに、不景気を楽しむことを覚えました。この不景気を乗り越えてやろう。業績を回復させてやる。それを孫たちに
「おじいさんはね、会社がこんなに大変になったとき、こんな手を打って回復させたんだ」
と話している自分の姿を想像すると何だか楽しくなって力がわいてきました。あらゆることを考え、いろいろな手を打つことが出来ました。打つ手はまさに無限です。
生活を楽しむことも忘れませんでした。雑誌などで気になるお店や商店街を見つけると、地図を持ち、ナップサックをしょってそこへ行き、自分の目で見て自分の感想を持つようにしました。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)で観客に水をかけるイベントがあると聞いて気になり、夜行バスで大阪まで行きました。水かけのアトラクションで立候補し、油臭い水をかけてもらって夜行バスで桐生まで戻ったこともあります。
もともと好きな落語、それに漫才もよく聞きました。どんなに大変でも、笑っていると元気が出ます。さらに笑いは人との潤滑油になります。
もちろんこれらは、すべて営業で使わせてもらいました。何でも笑い飛ばしながら、いつも希望を持ち、変化を恐れずにやってきたことが現在に繋がっているのだと思います。
いや、私だけの力で「笠盛」を守りぬけたとは思いません。
私が「笠盛」の4代目ですから、最初は自分が必死にやって業績を回復させようと力んでいました。しかし、いま目の前にある大きな危機は、決して1人では乗り越えられないことにすぐに気がつきました。私が人の倍働いてもわずか2人分、3倍働いてもたった3人分の仕事しか出来ません。私がやる、と思っている間は、業績は「足し算」でしか増えないのです。
しかし、会社で懸命に働いてくれている社員、「笠盛」を支えてもらっている仕入先や協力工場、笠盛のファンになって頂いている取引先、商売をさせて頂いている地域の皆さん。多くの人たちに支えて頂くことができれば、会社の業績は「かけ算」で増えていきます。
こんなシンプルなことに気付いたのは会社の危機に何度も遭遇したからです。私がいくら朝早くから夜遅くまで働いていても、少しも業績は良くなりませんでした。業績が良くなったのは、高単価の仕事を何シーズンにも渡って大量に発注していただいた取引先がきっかけでした。
取引先がそんな好意を示してくれたのは、他社よりも品質が良い製品を納期に間に合わせるよう頑張ってくれた社員や協力工場のおかげであり、生産が滞らないよう資材を納入して頂いた仕入れ先のおかげです。その結果、お客様の信頼もいただけるようになり、それが取引先に喜ばれて次の発注に繋がりました。
「笠盛」の歴史を辿ると、大変な危機に襲われたのは私の代だけではありません。初代からずっと、多くのみなさんに支えていただいて「笠盛」は苦難を乗り越えてきたのです。
これからも大きな波が必ず来ます。しかし、その大きな波を乗り越える事で二百年企業への道が見えてきます。
いつもご指導いただいている「臥龍(がりゅう)」こと、感動経営コンサルタント角田識之(すみだ・のりゆき)先生がいつもおっしゃっている後藤新平の言葉があります。後藤新平は台湾総督、東京市長も務めました。
財を遺すは下、事業遺すは中、人を遺すは上なり。
されど、財無くんば事業保ち難く、事業無くんば人育ち難し。
事業は人、物、金が必要です。しかし、物、金を作るのは人です。人の成長が一番大事なのです。
私にとっては危機感が一番の教師だったように思います。危機を乗り越えるためにはチャレンジ精神が必要です。
登山家のジョージ・マロリーが
「なぜエベレストに登りたいのか?」
と問われたとき
「そこに山があるからだ」
と答えたと言われています。
私は
「なぜ会社を続けてきたのか?」
と問われれば
「そこに危機があったからだ」
と答えます。
私の思いを他の人に押しつけたり、私の考えへの賛同を求める気はありません。ただ、皆様にも、何かを指針として挑戦を続けていただければと思います。
同じ屋根の下で一緒に働いてきた社員のみなさんは、この「笠盛」のDNA、挑戦精神をすっかり自分のものにしてくれたと思っています。そうでなければ、私のような社長と二人三脚で「笠盛」を今のような会社にしてくれることはなかったでしょう。いま願うのは、
「もっともっとDNAを磨いてちょうだい!」
ということだけです。
企業は、多くの人に助けられて続いていきます。挑戦する心を持つ多くの人に支えていただければ、「笠盛」は200年企業になります。
そんな、隠居1年生の思いをみなさんにお伝えしたいと思い、この本をまとめました。お手元においていただき、気が向いたときにページを繰っていただければと思います、
みなさん、今日までありがとうございました。
みさなん、これからもよろしくお願いします。
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以上が「はじめに」です。やっぱり長くなりました。輪読したみんなに何をやってもらい、どんな反応があったかは次回にご紹介します。

1948年3月18日生まれ
好き:仕事、ワイン、落語、漫才、みんなの笑顔、家族、妻(多分)
嫌い:仕事、ホルモンのシロ=噛みきれないので、妻(多分)
得意:笑顔、プログラミング、早食い、経営(多分)、妻(多分)
苦手:指相撲、妻(多分)
似ている芸能人:藤山寬美、キムタク(多分)















