決まっていたはずの人生行路が狂い始めたのは、父が帯の機屋を廃業したのが始まりでした。大学3年か4年の時です。帯が売れなくなったから、帯はやめて刺繍を専業にする、というのです。和服離れが進んで帯の需要が激減した昭和30年代の半ばから、「笠盛」は帯を織る傍らで刺繍業も始めていたのです。
考えてみれば仕方がなかったのでしょう。私の目にも日本人の着物離れは年々進んでいると見えました。学生生活をする東京でも、キャンパスはおろか町に出ても、和服姿はトンと見かけません。時代劇の映画やテレビドラマもすっかり下火になっていましたし、花柳界の灯も細くなる一方でした。時代劇と花柳界が和服の最後の頼みの綱だったのです。だから、和服の世界から離れて、洋装の世界でも通用する刺繍を業とすることは経営者としては当然の判断でしょう。
帯を織らなくなった昭和47年(1972年)、社名を「笠盛」に改めました。「織物」の2字を捨てたのです。
しかし、私にとっては青天の霹靂でした。これまでの人生はすべて、いずれは帯の機屋の経営者になる、という一点に向けて進んできたのです。
「だから、卒業しても京都に修行に行く必要はない。好きな道を選べ」
帰省したとき、父からそういわれて呆然としました。突然エアポケットに落ちたようなものです。自分で自分の進路を選ぶ? そんなことは全く考えたことがありません。自分の進路って、どうやったら選べるんだ?
友人たちのほとんどは就職先が決まり、実社会に出る夢を膨らませている頃でした。それなのに、私はまだどの道に進むかすら決めかねている。俺はどうなるんだろう?
私に声をかけてくれたのは、日立製作所に務めていた叔父でした。日立の販売部門になっていた日製産業にいる友人に紹介してやるというのです。
「彼に話しておいたから、この紹介状を持って行って来なさい」
日製産業は日立傘下の総合商社です。これからはコンピューターの時代だということで日立がソフトウエア関連部門をまとめて日立ソフトウエアエンジニアリングを作ったため、私はこちらに転籍することになるのですが、それは後の話です。なおこの会社は日立ソリューションズと社名が変わっています。
叔父の友人が面接してくれました。私が提出した書類を見ながら、
「うーん、この成績では、普通はうちの会社には入れないんだけどね」
といわれたことが記憶にこびりついています。成績といわれたって、三年生からあとは授業もなく、テストもなかったのです。最後はレポートを出して卒業したのですから、
「この人はいったい何を言ってるんだ?」
とムッとしたのです。

1948年3月18日生まれ
好き:仕事、ワイン、落語、漫才、みんなの笑顔、家族、妻(多分)
嫌い:仕事、ホルモンのシロ=噛みきれないので、妻(多分)
得意:笑顔、プログラミング、早食い、経営(多分)、妻(多分)
苦手:指相撲、妻(多分)
似ている芸能人:藤山寬美、キムタク(多分)















