「笠盛」の履歴書 — その25 駆け出し
ずっと続いてきた取引先は、ほぼ壊滅状態です。受注量は前年から半減。「笠盛」が生き延びるには新しい注文が何としてでも必要です。 既存の取引先が総崩れに近い状態です。やむなく私は飛び込み営業を始めました。これまで取引実績...
第2部 「笠盛」の履歴書ずっと続いてきた取引先は、ほぼ壊滅状態です。受注量は前年から半減。「笠盛」が生き延びるには新しい注文が何としてでも必要です。 既存の取引先が総崩れに近い状態です。やむなく私は飛び込み営業を始めました。これまで取引実績...
第2部 「笠盛」の履歴書当時の「笠盛」の受注先は和服関連と靴下・ニット関連に分かれていました。和服は桐生市内の他、京都、新潟県十日町に集中し、こちらには営業担当がいましたので、私は靴下・ニット製品の取引先を受け持ちました。ほとんどが東京で、1...
第2部 「笠盛」の履歴書実家に戻った私は、まず刺繍用のミシンが並んだ工場に入りました。それまでは実家の仕事には全くといっていいほど関心を持たず、ノーテンキに過ごしてきた私ですが、家業を継ぐとなればまず刺繍のことを知らねばなりません。「笠盛」は...
第2部 「笠盛」の履歴書それでも就職が決まり、私は検査課に配属されました。横浜市戸塚にある日立製作所のソフトウエア工場につめて、他の人が開発したソフトがコンピューターで正常に動くかどうか検査するのが仕事です。 いまコンピューターというと、ほ...
第2部 「笠盛」の履歴書決まっていたはずの人生行路が狂い始めたのは、父が帯の機屋を廃業したのが始まりでした。大学3年か4年の時です。帯が売れなくなったから、帯はやめて刺繍を専業にする、というのです。和服離れが進んで帯の需要が激減した昭和30年...
第2部 「笠盛」の履歴書桐生高校を卒業して、大学は中央大学理工学部管理工学科に進みました。 私は実質長男ですから、家業を継ぐのは当たり前、というのが父の考えで、私もそんなものだろう、と思っていました。中学、高校ぐらいの年代になると 「人生、...
第2部 「笠盛」の履歴書中学時代、母がたいそう喜んでくれたことがあります。 小学校5年から少しずつ成績が上がり始めましたが、体育だけは「良くて4」、「悪ければ2」が定位置でした。それが中学2年で、何とオール5になったのです。母はもうこれ以上...
第2部 「笠盛」の履歴書子どもの頃の私は、よく言えば「夢見がちな少年」、普通にいえばいつもボーッとしているとらえどころのない子どもでした。外に出て同じ年代の子どもたちと歓声を上げながら遊ぶことはあまり好きではなく、家に引きこもって読書の世界に...
第2部 「笠盛」の履歴書献上帯で桐生の帯出荷の3割を占めて隆盛を極める事業家の実質的な長男。子守に身の回りの世話をしてもらい、時には母に負ぶわれて育つ子ども。 皆様の目には、私は銀のスプーンをくわえて誕生した、生まれながらの幸運の持ち主と写...
第2部 「笠盛」の履歴書父まで3代に渡る「笠盛」の歴史は、私の記憶に残る限り書き尽くしました。いよいよ自分の事を語らねばなりません。父や祖父、曾祖父のことを語るのは思い出話ですからやりやすいのですが、自分の事となるとやや緊張します。決して無責...